来るときに通った暗く狭い廊下を渡り、カイルは中庭へと外に出た。
特に置いてきた荷物もない、控え室まで戻るつもりはなかった。
今まで熱気の溢れる場所にいたせいか、日の暮れかかった冷たい空気が身体に心地よかった。
競技場の一角を出たところで、覚えのある柔らかな風を感じカイルは振り返った。

「カイルさん」

出入り口の門に寄りかかるようにして、エリカが佇んでいた。

「あ…エリカちゃん?」

「おめでとうございます」

ふわりと微笑むその姿を見て、カイルは胸が高鳴るのを感じた。
それは甘い痛みを伴う、不可思議な感情だった。
眼を逸らしたいのに、いつまでも見ていたい。
恋、というものを自覚したからこそ感じるものなのかもしれなかった。

2人は競技場近くの広場まで移動し、設えてあるベンチへと腰を降ろした。
カイルの傷を手当させてくれ、とエリカが言い出したからである。
持っているバッグの中から、簡易救急箱を取り出したエリカは手早くカイルの頬と耳を消毒していく。
ピリッとした小さな刺激に顔を歪めると「痛いですか?」と途端に手が動くのが遅くなる。
その仕草がカイルにはどうしようもなく愛しく思える。
戦うことを生業とするカイルは、命に関わりのない軽い傷にはろくな手当などしない。
痛みなどカイルにとって長年連れ添った相棒のように親しみ深いものだった。
それなのに、痛くないようにとそぅっと気をつけて手当してくれるエリカの優しさが嬉しくて、身体中がこそばゆかった。

「これ、ちょっと滲みるんですけどよく効くんです」

そう言ってエリカが小さな容器に詰められた軟膏を差し出して見せた。

「市販の薬とはちょっと成分が違うんですけど」

殺菌、鎮静効果のある薬草と癒しの魔力を練り込んであるんです、と細い指にすくい取って薬をカイルの傷に慎重に塗り始めた。
傷の場所が顔なだけに、お互いの距離がとても近い。
エリカの視線は手当と共にカイルの頬から耳へと移っていく。
薬をすくい取る度に、視線が容器に下がりその長いまつげが白い頬に淡く影を落とす。
軽く開かれた唇は淡い紅色で、耳元にかかりそうな吐息を自分の唇で塞いでしまいたくなる衝動をカイルは必死になって押さえた。
これ以上、視線の中にエリカを置いておいたら自分を押さえることができなくなると、カイルはぎゅっと眼を閉じた。

「終わりました…カイルさん?」

カイルは治療が終わっても気付かずに膝に拳を握りしめ眼を閉じたままだった。
エリカの声に眼を開ければ、心配そうに覗き込むエリカの顔が視界いっぱいに広がっていて、動揺したカイルはベンチからずり落ちてしまう。

「あってててて…」

「だ、大丈夫ですか?」

「えへへ、大丈夫、大丈夫」

迷うことなく差し伸べられた手が嬉しかった。
その手が柔らかくて温かいことを自分は知っている。
そんな些細なことがこんなにも嬉しい。
カイルはそっとその手に自分の手を乗せると、体重をかけることなくふわりと立ち上がり照れ笑いを浮かべる。

「試合、見に来てくれたんだ」

「ええ、カイルさんの試合は毎回見させてもらってます」

毎回、という言葉にふと戦場における自分の姿を思いだし、一瞬にして血の気が下がる。
今は試合だから殺生こそしていないものの、エリカの全てを見通すような視線には血に狂った獣のような自分が映し出されているのではないか。
今し方胸に抱いていた沸き立つような気持ちもシュン、と音を立ててしぼんでいく。
殺戮人形と異名を取った、壊れている自分をエリカには知られたくなかった。

「カイルさんの戦い方は、まるで風の刃のようで眼が惹き付けられます」

続けられた言葉は思ってもみなかった賞賛の響きを持っていて、カイルは驚きに呆けた表情のままエリカを見返した。
彼女は眩しいものを見るような顔で照れくさそうに言った。

「振るった剣の軌道が銀色の光の道筋となって眼の奥に残るんです。
それがカイルさんの動きを彩って…とても綺麗なんですよ」

あぁ、自分がエリカの眼に移るただ綺麗なモノであったら本当にどんなにか良かったろう…。
それとも、エリカの側に居続けたら…いつかはその綺麗なモノになれる日が来るのだろうか。


突如として沸いたその望みを喉から手が出るほどに欲するのが分かる。

カイルはカラカラに乾いた喉から、絞り出すようにその望みの一端を音に乗せた。

「また…時間が空いてる時は遊びに行ってもいい?」

もちろんです、そう言って花のように微笑むエリカを見て、カイルは胸の奥でうずき始めた小さなトゲを見ないふりをした。

一緒に時間を過ごすだけでいい。
それ以上は望まないから…だから…どうか、側に居させて。
目次
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送